松本暮らしとご近所さん

  • 2016.08.17 Wednesday
  • 07:00

<2015年8月のメルマガより再録>

JUGEMテーマ:日記・一般


長野県の松本に引っ越して半年経ちました。

まわりに畑が多く、この夏はたくさん野菜をいただきました。

お隣さんが、「今朝採れたから」とみずみずしい茄子やトマトをくださったり、畑仕事をしているおじさんにこんにちはと挨拶すると(初対面!)、「持って行きな?」とキュウリをくださったり。

採れたての野菜は、本当にみずみずしく味が濃く、生きている野菜!という感じです。

隣のおばあちゃんがご近所さんと一緒に畑を借りて野菜を育てているというので、「私もやってみたいですね?」と話していたら、なんと、今度場所が空くからと、私も畑をやらせてもらえることになりました。

畑仕事は初めてで、何やらさっぱり分かりません。

すると同じ畑を借りているおじさんが教えてくださるとのこと!

鍬さえ持っていない私・・・

おじさんが畝を起こしてくれるというので、買っておいた肥料を見せていると、「この肥料はちょっと違うな?。じゃあ隣の○○さん(おばあちゃん)に肥料を借りておくかい」と言って、「○○さんいるかい?」と庭から声をかけると「いるよ?」とひょっこりおばあちゃん。

「肥料?どうぞどうぞ使って?」と言ってくださいました。

「おーい」と読んだら「何だ?い」と出てきて会話がはじまるオープンな感じ、いいなぁと思いました。
そして、こんなにご近所さんに助けていただけるなんて、とても嬉しく有り難く思いました。

自治会の作業は、ゴミ出し当番やら、近所の川掃除、公民館掃除があり、たしかに面倒でもあるのですが、そういった町のしごとがあるからご近所のつながりもできるのかもしれません。

おじさんが起こしてくれた畝に撒くのは大根とほうれん草の種です

とても楽しみです。

 

(文 ヤスハラ)

目に見えるものと見えないもの、そして 私たちがつながれるわけ

  • 2016.07.15 Friday
  • 00:00

<2015年7月のメルマガより再録>


「本当に大切なものは目に見えないんだよ」(『星の王子さま』より)。

でも、「目に見えないもの」は、ほとんどの場合、「目に見えるもの」を通してしか、感じ取ることもできなければ、伝えることもできない。

そこに、人が生きることの、根底的な悲しみや崇高さがあるのではないだろうか。

最近ますます、人の一生は、暗黒の宇宙空間に生まれ、一瞬輝いては消えていく星々のようなものではないか、という気がしている。人はいわば、無限の中に抱かれた有限の存在なのだ。

人間は、程度の差はあれ、自分には感じ取れないものがあることに苦しみ、あるいは、感じ取ったものを表現しきれないことに悩む。

それぞれが、「自分」という時間的空間的制約や孤独の中で生きているということ−−これが、私の好きな著作家、ケン・ウィルバーの言う、「人が生きるということの本質的な悲劇性」なのだろう。でも、それがあるからこそ、人はつながりあうことがで
きるのではないか、という気がしている。

なぜなら、「それぞれが、自分の限界と格闘しつつ、それぞれの孤独を生きざるを得ない」ということこそ、私たち皆が共有している運命だから。

この世に生まれるということは、それぞれの孤独と限界を引き受けて生きるということに他ならない。

その勇気を心から称えたいと思う。

そして、自分自身を表現しよう、限界を押し広げようという格闘を、お互いに応援できたら、と思う。

「存在している」ことを英語ではpresentと言うけれど、本来、存在していることそのものが、世界にとって、そしてお互いにとって贈り物なのだから。
そういうことを、最近、折にふれて思っている。

 

(文・千葉)

 

 

 

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月の夜に

  • 2016.06.18 Saturday
  • 15:11

<2015年6月のメルマガより再録>


moon moon yellow moon

先月のドリームシアターの中で出てきたフレーズ。
この言葉を唱えると、夜空に淡く拡がる月光を想う。

私たちのlifeに在る、昼と夜、太陽と月、そして、闇。
赤ちゃんは、月の満ち欠けに合わせて生まれるし、
植物も、太陽だけでは育たず、夜という時間と空間を必要とする。

夜は、光と闇が織りなす、天の波のシンフォニー。
陽の賑わいを映して、月は、涼やかにやさしくその気を放つ。
新月の時は、その姿を闇の衣で隠し、微細に流れる舞。

まるで、夢と同じ…
ある時は、昼の慌ただしさを映し、
ある時は、心の闇の力を示す。

満月の夜、静かに空を見上げる白兎を友に、
月からの風を浴びて、夢の旅に出かけよう。

(文・依浮とし子)

 

 

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お互いがメンター(助言者)

  • 2016.05.15 Sunday
  • 08:00
<2015年5月のメルマガより再録>

にじの絵のぐのワークショップと、他の「癒やし」を目的にしたワークショップでは大きな違いがあることに気づいた。

それはメンターの存在。

多くの場所では主催者がメンターとなっている事が多い。

もちろんワークの手順を教える過程でそういう面が出てくるのは当然なんだけど、その後も参加者は教えてもらう側同士という関係に終始する。

でもにじの絵のぐのワークでは、ドリームシアターもおんどくもILPも参加者全員がお互いにメンター的役割を意識せずとも行っている。

けして「あなたはこうするのがいいのよ!」なんてことを押し付けがましく言い合うわけじゃない。

誰かが場の流れで何気なく言っていたこと、個人的に感じたことなんだけど、でもそれがきっかけで後々新たなチャレンジにつながっていったりする。

新年度に入り、今後もまた新たなワークを企画していきますが、にじの絵のぐのいいところが自然に深く感じられるものになればいいなと思います。

 (文・ナカガワ)

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娘が3歳半になりました。

  • 2016.04.15 Friday
  • 00:00
<2015年4月のメルマガより再録です>

娘が3歳半になりました。
色々とおしゃべりをしてくれます。

 「あのねミッキーとね、一緒にね、温泉に行ったんだよ」、「昨日ね、トトロと、○○ちゃん(お友だち)とお散歩したんだよ」、などと言って楽しませてくれます。

 たまたま、TVでマック・バーネットという絵本作家がTEDというプレゼンテーション番組に出ているのを見ました。
そういえば彼が描いた「アナベルとふしぎなけいと」という絵本を図書館で借りたことがあります。

 彼は、子どもは「ほんとう」と「うそ」の交じり合ったところを生きているというようなことを話していました。
(truthの円と、lieの円を描いて、2つの円が交じり合ったところを指していました)
子供は「秘密の 扉」を持っていて、絵本を描くことは扉の向こうの不思議な世界へ入り込むことだと、確か言っていたと思います。

 娘もほんとうにミッキーと温泉に入ったとは思っていない。
でも大人が言う「作り話」とはちょっと違っているのでしょう。ミッキーと温泉に入った空想の世界は彼女の中に確かに存在している、つまり彼女にとってはある意味リアルなのではないでしょうか。

 マック・バーネットさんの話を聞いて、娘のファンタジック発言の後ろに広がる豊かな世界が垣間見えたようで嬉しくなると同時に、「また面白いこと言ってるね〜」くらいにしか思っていなかった自分にちょっと反省。

 アートセラピーでは、ファンタジーの力を借りて自己探求や問題解決していくことを実感していたはずなのに、あまりにも現実的な思考にとらわれていた自分に気づきました。

 ふと足元を見ると、おもちゃのブロックが散乱しています。
普段ならすぐに「ほら〜ちゃんと片付けなさい」言ってしまうところですが、「これは、例の「秘密の扉」かもしれない、並べられたブロックの向こうに彼女の世界が広がっているのかな・・・」と思うと、散らかったおもちゃにしか見えなかったものが、ちょっと違って見えてきます。

最終的には「片付けなさ〜い!」になるんですけれどもね(笑)

(文:ヤスハラ)


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“おんどく”が連れてきた不思議

  • 2016.03.15 Tuesday
  • 00:00
<2015年3月のメルマガより再録です>
 「おんどく」のワークショップが始まってから3年。
お気に入りの文章を、声を出して読みあうだけなのですが、予め話し合ったわけでもないのにテーマが共通する文章が集まったり等、いろいろと不思議な出来事を経験しています。

 今日は、そういう不思議のひとつをご紹介したいと思います。

 先日の「おんどく」のときに、私は、ロシア語通訳者で優れたエッセイストでもあった米原 万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』という本の一節を読みました。
亡命したロシア人舞踊家や音楽家から涙ながらに打ち明けられたこととして、次のような言葉が記されていたのです。

「西側に来て一番辛かったこと、ああこれだけはロシアのほうが優れていると切実に思ったことがあるの。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ、ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能がある者は無条件に愛され、みなが支えてくれたのに」

 この言葉をきっかけに、その場でも皆で色々な話をしたのですが、私自身には、なぜ自分がこの文章を選んだのか、実はいま一つぴんときていませんでした。
ところが、その後で、「ああそうだったのか!」と思う出来事があったのです。

 それは、上記の文章を「おんどく」してから一月ほどたったときのこと。
なかなか過酷な条件で、三人で仕事をしていました(私も、アートセラピー関係とは違う「もう一つの顔」として、時間に追われてパフォーマンスをする仕事をしています)。
でも、そのうちの一人の、実に生き生きとして楽しげなこと。
終わった後で、「楽しかった〜!」と言うので、「でも、いつもより時間も長くて、大変だったじゃない?」というと、「ううん、波に乗れたから大丈夫だった!」とにこにこ顔。
私や、もう一人の仲間にとっては、青息吐息でやり遂げるレベルの仕事だったので、思わず二人で顔を見合わせてしまいました。

 そういうことがあると、「なんであの人は楽々できるのに、私はできないのかなあ〜」と思って落ち込んだりするのがいつもの私です。
でも、その時、「才能は皆の宝だよね」の話をはっと思い出したんですね。
そういうことだったのか!ビンゴ!」という感じで、思い切り笑いました。しばらく、お腹がよじれて話もできないくらいでした。

 夢には「予知夢」というものがありますが、夢を分かち合ったり意識する経験を積み重ねたりすると、夢のような作用がほかでも起こるのかもしれません。
私にとっては、無理に「彼の才能は貴重なものだから、尊重しなければ。全体の状況にとってもいいことだし」と頭で思うのではなく、「あのときの”おんどく”はこういうことを伝えたかったのね!」と、するっと腑に落ちた経験でした。

 「おんどく」には色々な効用があります。
まず、声を出すというところがいい。
声に出すことで、自分の頭の中だけで読んでいたときとは違う何かが自分の中に響くんですね。

そして、それがほかの誰かの何かに響く。
対話を通して、自分のものの見方も少しずつ、揺らいだり変わったりしていく。
そして、「おんどく」の場では、お互いを信頼して自分をさらけ出せるという「場」ができ
ているので、無意識的な部分も関わりあうことができる。

無意識が関わると、自分の意識のあり方の変容にも無理がない、あるいは少ないということを改めて実感しました。

 おんどく、益々病みつきになりそうです。(文・千葉)


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お正月の動物園

  • 2016.01.15 Friday
  • 08:00
<2013年1月のメルマガより再録です>

新年を迎えて、今年も動物園に行きました。美術館を訪れたいものですが、年末年始は閉館。でも動物園は2日から開くのです。この話をすると、皆驚いたように「余程動物が好きなのですね。」と言われます。

 確かに、本当に、動物は好き。同じ動物の人間も含めて生き物の放つエネルギーに惹かれるのでしょう。だからこそ、人の心を扱うセラピストになったのかもしれません。

 古い記憶の中の一枚の映像。

 雪が舞いそうな、モノクロの暗い日、池の張り出しで寂しげに吠える一頭の海馬の姿。

 小学校高学年の頃の記憶です。動物園好きの叔父に誘われて、というか無理矢理というか、寒くて凍えそうな正月に上野動物園に行きました。
母方の従兄弟同士の中で年が離れて小さかった私は、動物園、お花見、画材屋の買い出しなどなど、叔父たちに伴われてよく行ったものです。他の従兄弟たちはもうそんなお付き合いをしない年齢になっていましたから。

 振り返れば、それが、今の「私」を創り上げるのに大きな影響を与えていたようですね。生き物への興味、微妙な桜の色合いに響く心、絵に向かう時の視線と姿勢…。

 お正月の動物園はそんな思いを運んできます。

 皆さんは、どのような新年を迎えられましたか?

 今年も、NPO法人にじの絵のぐをよろしくお願いいたします。

青のこころ

  • 2015.12.15 Tuesday
  • 08:00
<2014年12月のメルマガより再録です>

特に読みたい本が思いつかない時、語源辞典をめくることがあります。
語源というのは単に言葉の成り立ちの流れだけ見ても面白いのですが、その言葉が成立する以前はどんな表現をしていたのか?なんて考えるのも楽しいです。
例えば「青」。
「青」ということばがなかった頃、人々は青という色をどんな風に表現していたんでしょうか。
色の名前は「○○に似た色」というパターンが多いです。「アオ」という言葉も「アイ(藍)」から来ているという説があります。
もう一つ空の色から来ているという説。
しかし、藍はアイという言葉ができており、また空はソラという言葉として成立しています。
我々が「青」と言われて頭に浮かぶ色に「アオ」という名前をつけたことを考えると、空の色だよとかナントカの色だよというのは原点ではなく、むしろ後付けの様な気がします。

ちょっと行き詰まって他の色を調べたところ「アカ」は「アカルイ」から、「クロ」は「クライ」から来てるのだそうです。
では、アオもそんな感じの言葉だったのではないか?そう考えて調べてみたところ、「アオ」は「アヲグ(仰ぐ)」から来ているという説を見つけました。

古代の人々が一息ついた時にふと上を仰ぎ見た時に見えた色、それがすなわち青(アオ)。

なんだかとてもすんなり納得出来ました。そして心と体がつながっている事を示す一つの象徴のように思えてきました。

今、皆さんが仰ぎ見る景色にはどんな色が広がっているでしょうか?

五感の話

  • 2015.11.15 Sunday
  • 08:00
<2013年6月のメルマガより再録です。>
 先日、スタッフ数人で集まる機会があった時、「五感のうち、 人によって優位な感覚が違うみたいだね」という話が出ました。
から入る情報が圧倒的に多いので、視覚が最も発達している場合が多いようですが、 自分の場合は聴覚と触覚(皮膚感覚というか、体性感覚)かな、 と思っています。

 もちろん、「にじの絵のぐ」 の活動に参加しているくらいですから、絵は描くのも見るのも大好きです。一番好きな画法は、 何色ものカラフルな色を下地に塗った上で、黒や紺などの濃い色で塗りつぶし、 爪やニードルなどで引っかいて、模様に応じてどんな色が出てくるかを楽しむ方法。
実はこれ、幼稚園で「花火を描きましょう」ということで習った画法です。
一枚絵を描くのに、クレパスを一度にずいぶん消費してしまうのが難点なのですが、 クレパスを押し潰して塗っていくときの「むにゅむにゅ」感、 濃い色を取り除いた部分にどういう色が現れるか(塗り重ねることで色が混じりあい、 意図していなかった色が現れたりするのがまたいいのです) というワクワク感がたまらないお絵描きです。

 そういえば、私は、お料理でも、蓮根団子とか、ハンバーグとか、 手でこねて作るものが大好きでした。「むにゅむにゅ」に触っていると、 遠い昔、母に抱かれてお乳をまさぐっていたときの記憶がよみがえるのかもしれ ません。

 でも、「むにゅむにゅ」 が自分にとって癒しになるんだと気づいて、意識して生活に取り入れるようになったのは、 比較的最近のことのような気がします。
大人になっていく過程で、どうしても論理・ 思考を発達させることに集中するあまり、感覚を大切にすることをいつしか忘れていました。 仕事で疲れて帰ってきた時、それでもお料理をすると心が休まること、 特にお団子系のものを作るとほっとすることに気づいたのは、 三十歳をずいぶん過ぎてからでしょうか。

 その後、色々な本を読み、またアートセラピーと出会い、情緒・ 右脳的思考や感覚の大切さを改めて認識するようになりました。 意識して使えば使うほど、感覚も鋭くなり、 論理にのみ頼ってきた場合には気がつかなかったことにも気づけるようになったように思います。また、 日々の暮らしに奥行きができたというか、 ちょっとしたことにも喜びや楽しみを見出すことができるようにな
てきたとも感じています。

「にじの絵のぐ」では、色々な感覚に働きかけ、 気づきをうながすワークを行っています。 子どもが論理や思考だけでなく色々な感覚を身につけながら育つことを願うと同時に、大人も、 子どものように楽しむひと時を持ち、遊び心を刺激することで、 生活により潤いが感じられるようになればいいな、と思っています。



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ドリームシアターの楽しみ

  • 2015.10.15 Thursday
  • 09:00
<2014年10月のメルマガより再録です>

「にじの絵のぐ」のスタッフとして、自分でもワークショップを企画していますが、他のファシリテーターが主催するワークショップにも極力参加するようにしています。

 中でも楽しみなのが「ドリームシアター」。一回一回が楽しいのは言うまでもありませんが、参加し始めて約2年、継続することで得るものが大きいと感じています。

 まず、沢山夢を見て、寝ても寝ても寝たりないように思うときは、自分にとって転機のとき。題材の選び方や絵の描き方で、自分の状態が何となくわかるようになってきました。

 そして、興味深いのが、シアターの中で、そのときの自分にとって必要なロール(役割)を割り振られることが多い、ということです。舞台の枠組みを構成する役ばかりが当たることもあれば、誰かと誰か、何かと何かを「つなぐ」役割を主に担ったこともありました。面白かったのが、「人物」以外の役割ばかり当たったとき。「自分の中の、野生的だったり本能的だったりする部分を活性化するよう促されているのかしら!?」と思ったものです。

 シアターを通じて、自分の夢をより深く理解したい、という欲求は誰しも持っているものだと思います。私も、そういう思いは勿論ありました。でも、継続的にシアターに参加してきてみて思うのは、他の人の夢を表現しているときにこそ、自分のシャドウ−−影、自分が見たくないと思っている自分−−の部分がよりはっきり見えてくるということですね。他の人の夢だということで、安
心感があるのかもしれません。だんだん、こういうことが分かってきて、「自分の夢をどうしても分かりたい」という強いこだわりは少しずつなくなってきました。そのときすぐに意味が分からなくとも、「必要なものならば、また夢を見るだろうし、わかるようになるだろう」と、信頼して待つことができるようになってきたように思います。

 夢は、見るだけでも楽しいですが、記録して、絵に描いたり、シアターやワークに参加したりすることで、より深く掘り下げ、またふくらませることができます。これからも、夢が提示してくれるものを導きの糸としながら、人生を歩んでいけたらと思っています
(文・千葉)

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